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第六話 気になる距離

作者: 海野雫
last update 公開日: 2026-03-06 19:00:00

 フィールクラフト株式会社の小さな会議室で、直は企画書を広げていた。

 アーク・ブリッジの仕事は、法人向けの業務効率化システムの提案と導入だ。フィールクラフトはインテリアや生活雑貨を扱う会社だ。事業が急成長している一方で、在庫管理や受注処理が追いついていないという。直はその改善策を提案するために訪問した。

 初対面の相手との商談はいつも緊張する。今日も、会議室に通されてから担当者がくるまでの数分間、胃のあたりがきゅっと締まっていた。

「失礼します。お待たせしました」

 入ってきたのは、穏やかな顔立ちの男性だった。直と歳が近いように見える。

「経営企画部の相沢恒一です。今日はわざわざお越しいただいてありがとうございます」

「アーク・ブリッジの夏目です。こちらこそ、お時間いただきありがとうございます」

 名刺を交換して、席についた。

 相沢は企画書に目を通しながら、時折頷いたり、ペンで印をつけたりしていた。真剣に読んでくれているのがわかる。

「なるほど。うちの課題、かなり的確に拾っていただいてますね」

「ありがとうございます。ここからさらに御社の実情に合わせて詰めていけますので、よろしくお願いします」

「いいですね。在庫回転率のところ、もう少し掘り下げていただけると助かります。うち、季節商材が多いので」

「承知しました。データをいただければ、次回までに反映します」

 相沢は頷いて、ペンを置いた。そして、ふっと表情を緩めた。

「夏目さん、説明がすごくわかりやすいですね。専門用語をこちらにもわかる言葉に言い換えてくれるから、話が早い」

「いえ、そんな……」

「いや、本当に。前の業者さんは横文字ばっかりで、正直きつかったんですよ」

 相沢が笑うと、会議室の空気がやわらかくなった。直もつられて肩の力が抜けた。初対面の相手とここまでスムーズに話が進んだのは珍しい。

「企画が通ったら、ぜひ現場も見ていただきたいです。倉庫や店舗など、実際に見ていただいたほうが、よりよい提案ができると思いますので」

「ぜひ。こちらもそうしたいと思っていました」

 相沢が立ち上がり、手を差し出した。握手を交わした。温かくて、力の入れ方がちょうどいい手だった。

「よかったら連絡先、交換しませんか。メールだけだと堅いので、なにかあったときにすぐ相談できるように」

「ああ、そうですね。もちろん」

 スマートフォンを取り出して、連絡先を交換した。帰り際に相沢が「次は打ち合わせの後にでも、軽く食事しましょう」と笑った。

 嫌な感じがまったくしない人だった。押しつけがましくなく、かといって事務的でもない。仕事の相手として、理想的な距離感だと思った。

 オフィスに戻ると、理人がコーヒーを持ってきた。

「おかえりなさい」

「おう。ただいま」

 コーヒーを受け取ってひとくち飲む。温度がちょうどいい。理人は、直が戻る時間から逆算してコーヒーを淹れてくれている。スケジュールを共有しているから、フィールクラフト訪問の時間も把握しているのだ。

「どうでした?」

「よかったよ。企画も通りそうだし、向こうの担当者がすごく話しやすい人でさ」

「そうですか」

「相沢さんっていうんだけど、歳も近くて。現場の視察にも一緒に来てほしいって言ってくれた」

 理人の手が一瞬止まった。コーヒーカップを持ったまま、指先の力が変わったのがわかった。

「そうですか」

「あとさ、企画が決まったら、食事でもどうかって誘われた。接待ってほどじゃないけど、関係深めるのにいいだろ」

「……ええ」

 理人の返事は短かった。いつもなら「いいじゃないですか」とか「段取り確認しましょうか」とか、なにかしらフォローが入るのに。今日は一言ずつだ。しかも、直の目を見ていない。

「神谷? どうした。なんか元気ないぞ」

「そんなことないです」

 理人はそれだけ言って、斜め後ろの自席に戻っていった。背中が、なんとなく硬い。振り返ると、もうモニターに向かっている。キーボードを打つ音だけが聞こえた。

 なにか変なこと言ったか。思い当たらない。

 直は首をかしげて、報告書の作成に取りかかった。

 そのとき、直のスマートフォンが震えた。相沢からだった。

『今日はありがとうございました。夏目さんの説明、社内でも好評でした。企画、通ると思います!』

 直は口元が緩んだ。返事を打ちかけて、ふと手を止めた。理人が斜め後ろの席にいる。別に見られて困るようなメッセージではないのに、なんとなく今打つのが気まずかった。

 スマートフォンをポケットにしまった。後で返せばいい。なぜそうしたのか、自分でもわからなかった。

 その日の帰り、会社の最寄り駅へ向かう道すがら、理人の口数がいつもより少なかった。

 五月も後半に入って、日が長くなった。夕方の空がまだ明るくて、住宅街の影が長く伸びている。

「なあ、神谷。ほんとに大丈夫か? なんか今日、ずっと静かだろ」

「いつも通りです」

「いつも通りじゃないだろ。俺にはわかるぞ」

 理人がちらりとこちらを見た。ほんの一瞬、目が合った。なにか言いかけて、やめたように見えた。

「……そうですか」

 それだけだった。

 黙ったまま並んで歩いた。いつもなら理人から明日の予定の確認や、夕飯の話題が出るのに、今日はなにもない。沈黙が続くのは珍しくない。だが、今日はいつもと違って重い。

 直はなんとなく居心地が悪くて、話題を探した。

「今日の商談さ、相沢さんがすごく褒めてくれてさ。説明がわかりやすいって」

「……そうですか」

 また同じ返事だった。

 直は横目で理人を見た。前を向いて歩いている。表情は変わらない。でも、歩幅がいつもより少し広い気がした。速く歩いて、早く帰りたいのだろうか。

「……悪い。なんか気に障ること言ったか」

「言ってません」

「じゃあなんでそんな不機嫌なんだよ」

「不機嫌じゃないです」

「なってるだろ!」

「なってません」

 理人が足を止めた。直も止まった。

 理人がこちらを見た。まっすぐに。

 その目に、見慣れない色があった。怒りではない。悲しみでもない。名前のつけられないなにか。直を見ているのに、直の奥にあるなにかを見ているような目だった。

 直は言葉を失った。

 数秒間、ふたりの間で視線が止まった。

 理人が先に目を逸らした。そして、ほんのわずかに口角を上げた。笑い、とは言えないくらい小さな動きだった。

「なんでもないです。先輩が楽しそうでよかったです」

「……お前さ、それ、ぜんぜんよかったって顔してないぞ」

「気のせいです。行きましょう」

 理人が歩き出した。直はその背中を追いかけた。半歩遅れて、隣に並ぶ。

 なにかがおかしい。相沢の話をしてから、ずっとこうだ。仕事の話をしているだけなのに、理人の空気が固くなる。

 けれど、聞いても「なんでもない」としか言わない。理人はいつもそうだ。自分の感情を言葉にしない。

 翌日、朝の八時。理人が直のアパートの前に立っていた。

「おはようございます」

「おっ、おま……。なんでいるんだ」

「今日から朝、迎えに来ます」

「は? なんで急に」

「先輩は気を抜くと寝坊します。出社時間を安定させるためです」

「いや、最近は寝坊してないだろ」

「予防です。習慣が崩れてからでは遅いので」

 理人の口調は淡々としていた。否定する隙がない。いつものことだが、理人は「やります」と決めたら、それを決定事項として話してしまう。

「お前、ここまでくるのに三十分以上かかるだろ。毎朝ってわけにはいかねえだろ」

「朝は早いので問題ありません」

「……マジかよ」

 直は諦めて、理人と並んで駅へ向かった。

 朝の住宅街は静かだった。通勤の人がちらほら歩いている。初夏の朝の空気は澄んでいて、ビルの谷間とは違う匂いがした。その中をふたりで並んで歩くのは、なんだか不思議な気分だった。

「なあ、昨日の帰り、お前元気なかっただろ」

「そうでしたか」

「そうだったよ。フィールクラフトの話してから、ずっと」

「……そうですか」

 それ以上は言わなかった。理人は前を向いて歩いている。横顔からはなにも読み取れない。

 まあ、いいか。理人にだって調子の悪い日はあるだろう。

 電車に乗って、オフィスに向かった。朝のラッシュの電車は混んでいたが、ふたり並んで吊革につかまれる程度の余裕はあった。電車の中で、ふと思い出した。

「あ、そうだ。昨日言いそびれたんだけどさ」

「なんですか」

「相沢さんに、うちの会社の強みの話してたら、学祭の話になってさ」

「学祭?」

 理人の声が、わずかに変わった。気のせいかもしれない。

「ああ。なんか、相沢さんも大学のとき学祭で模擬店やってたらしくて。俺も学祭で焼きそば焼いてたんだよーって話したら盛り上がった」

 理人の手が、一瞬だけ止まった。

 吊革を握っていた手が、ほんのわずかに力を込めたように見えた。

「そうなんですか。先輩、焼きそば好きですもんね」

「まあな。大学のサークルで毎年やってたんだ。うちの焼きそば最高だからって客に勧めまくってた」

「……うちの焼きそば、最高」

 理人が小さく繰り返した。

「ん? なんか言った?」

「いえ。楽しそうですね、学祭」

「おう。あのころは楽しかったな」

 理人は窓の外を見ていた。その横顔がほんの一瞬だけ、いつもと違う色を帯びた気がした。懐かしいような、苦しいような。けれど直が見たときには、もういつもの無表情に戻っていた。

 理人が朝迎えにくるようになって一週間が経った。

 毎朝八時にインターホンが鳴る。「おはようございます」の一言から始まる日課。最初は戸惑ったが、三日で慣れた。理人がくる前に身支度を整えるようになったし、朝食も食べるようになった。待たせるのが申し訳ないからだ。

 結果的に、生活がさらに規則正しくなった。理人の狙い通りだ。

 弁当作り、水曜と週末の夕飯作り、そして毎朝の迎え。直の一日のうち、理人が関わっていない時間はほとんどなかった。寝ている時間と、仕事をしている時間くらいだ。それすらも、共有スケジュールで理人に管理されている。

 その日の朝は、目が覚めたときからなんとなくだるかった。昨日の接待で遅くなったせいだ。相沢との打ち合わせの後に軽く食事をし、話が弾んで、気づけば二十二時を過ぎていた。相沢は話していて楽な相手だった。仕事の話から趣味の話に自然に移れるタイプの人で、こういう取引先は大事にしたいと思った。

 インターホンが鳴って、玄関を開けた。

「おはようございます」

 理人はいつも通り、隙のない格好で立っていた。直の顔を見て、一瞬だけ目を細めた。

「先輩、今日、顔色が悪いですね。昨日は何時に寝ましたか?」

「……一時すぎ、かな」

「接待でしたよね」

「ああ。相沢さんと飯食ってたら長くなって」

 理人の表情が、ほんのわずかに動いた。唇がきゅっと引き結ばれたのが見えた。けれどすぐに元に戻って、鞄からなにかを取り出した。

「これ、飲んでください」

 パックに入った野菜と果物のジュースだった。黒酢が入ってるらしい。

「お、サンキュ。気が利くな」

「朝食は食べましたか」

「トースト一枚」

「足りないですね。コンビニ寄りましょう。サラダぐらい追加してください」

「へいへい」

 並んで駅に向かう。理人の歩調はいつも通りだった。けれど今日は口数が少ない。相沢の名前を出してから、また静かになった。

「なあ、神谷」

「はい」

「お前さ、最近なんか……」

 聞こうとして、やめた。

 なんか変じゃないか、と聞きたかった。相沢の話をするたびに、理人の空気が硬くなる。口数が減る。それが嫉妬なのか、心配なのか、別のなにかなのか、直にはわからなかった。

「なんか、なんですか」

「……いや、なんでもない」

 理人はこちらを見なかった。前を向いたまま歩いている。

 そのとき、直はふと気づいた。理人の目の下に、うっすらとくまがあった。

「お前こそ、ちゃんと寝てんのか?」

「……寝てます」

「嘘つけ。くまできてるじゃねえか」

「大丈夫です」

 理人の声がわずかに揺れた。気のせいかもしれない。けれど直は、理人がいつもより疲れて見えることが気になった。

 毎朝三十分以上かけて迎えに来ている。弁当を作り、水曜と週末には夕飯を作りにくる。自分の仕事もある。それをこなした上で、この生活。

 理人は自分のことを後回しにしていないか。

「無理すんなよ。朝の迎え、やめてもいいんだぞ」

「やめません」

 即答だった。

「先輩が心配しなくていいです。俺は大丈夫ですから」

 理人がようやくこちらを見た。目が合った。

 そこにあったのは、いつもの無表情ではなかった。名前のつけられないなにかが混じった目だった。真剣で、けれどどこか切なくて。

 直は言葉を失った。

 数秒間、ふたりの間で視線が止まった。

 理人が先に目を逸らした。「行きましょう」と言って、歩き出した。

 直はその背中を追いかけた。半歩遅れて、隣に並ぶ。

 ――あいつ、最近なんか変じゃないか。

 聞こうとして、やめた。聞いたら、きっと「なんでもありません」と返される。それがわかっているのに、気になって仕方なかった。

 理人の横顔を盗み見た。いつも通りの無表情。いつも通りの姿勢。けれどその奥に、さっき見えたなにかがまだ残っているように思えた。

 それがなんなのか、直にはまだわからなかった。

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  • 気づいたら後輩に飼われてた   第十四話 噂

     金曜日の朝、久しぶりに直の家のインターホンが鳴った。 直はいそいそと玄関に向かった。「おはよう」「おはようございます」 玄関前に理人が立っていた。白いシャツにネイビーのパンツという、いつもの格好だ。肩に雨粒が少しついている。直は口元が緩みそうになるのを堪えた。「今日も雨だな」「一日降り続くようです。折り畳みじゃないほうがいいですよ」「おう」 直がしゃがんで靴を履いていると、頭上から理人の声が降ってきた。「……ひどいで

  • 気づいたら後輩に飼われてた   第十話 元カノ

     理人が距離を置いてから、数日が経っていた。 弁当はない。朝の迎えもない。帰りも別々だ。会社でも、必要最低限の会話しかしない。 これが、管理が始まる前の生活だったのだ。ほんの二か月前まではこれが普通だったのに、今は毎日がやけに長く感じた。 その日の夕方、直はひとりで会社の最寄り駅へ向かって歩いていた。六月の空はまだ明るくて、夕日がビルの谷間に沈みかけていた。「あれ、直くん?」 声をかけられて振り返った。見覚えのある顔だった。「……あゆみ?

  • 気づいたら後輩に飼われてた   第九話 空白

     熱は下がった。けれど身体のだるさは抜けなかった。 とはいえ、二日も仕事を休むわけにはいかない。直は重い身体を動かし、出勤の準備をした。 いつもの時間になっても、インターホンが鳴らない。理人が迎えに来ない朝は久しぶりだった。入れ違いにならないよう、理人にメッセージを送った。『今日、出社するから』 すぐに返信がきた。『すみません。今日は迎えに行けません』 来られないのか。理人は、直が昨日に続いて休むと思っていたのかもしれない。けれど、その一文にはいつもの「気をつけてください」がなかった。

  • 気づいたら後輩に飼われてた   第八話 看病

     朝起きたら、身体がだるかった。 頭が重い。関節が痛い。喉の奥がひりひりする。この感覚は知っている。「あー……やっちまったな」 電子音が鳴るまでの一分間がやけに長く感じた。 鏡に映った自分の顔はひどかった。目の下が赤く、唇も乾いている。体温計を脇に挟んで待つ。電子音が鳴るまでの一分間が長い。ピピッと鳴って画面を見ると、三十八度二分だった。「……だよな」 原因は心当たりがある。昨日の帰り道だ。 夕方から急に雨が降りだした。六

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