ログインフィールクラフト株式会社の小さな会議室で、直は企画書を広げていた。
アーク・ブリッジの仕事は、法人向けの業務効率化システムの提案と導入だ。フィールクラフトはインテリアや生活雑貨を扱う会社だ。事業が急成長している一方で、在庫管理や受注処理が追いついていないという。直はその改善策を提案するために訪問した。
初対面の相手との商談はいつも緊張する。今日も、会議室に通されてから担当者がくるまでの数分間、胃のあたりがきゅっと締まっていた。
「失礼します。お待たせしました」
入ってきたのは、穏やかな顔立ちの男性だった。直と歳が近いように見える。
「経営企画部の相沢恒一です。今日はわざわざお越しいただいてありがとうございます」
「アーク・ブリッジの夏目です。こちらこそ、お時間いただきありがとうございます」
名刺を交換して、席についた。
相沢は企画書に目を通しながら、時折頷いたり、ペンで印をつけたりしていた。真剣に読んでくれているのがわかる。
「なるほど。うちの課題、かなり的確に拾っていただいてますね」
「ありがとうございます。ここからさらに御社の実情に合わせて詰めていけますので、よろしくお願いします」
「いいですね。在庫回転率のところ、もう少し掘り下げていただけると助かります。うち、季節商材が多いので」
「承知しました。データをいただければ、次回までに反映します」
相沢は頷いて、ペンを置いた。そして、ふっと表情を緩めた。
「夏目さん、説明がすごくわかりやすいですね。専門用語をこちらにもわかる言葉に言い換えてくれるから、話が早い」
「いえ、そんな……」
「いや、本当に。前の業者さんは横文字ばっかりで、正直きつかったんですよ」
相沢が笑うと、会議室の空気がやわらかくなった。直もつられて肩の力が抜けた。初対面の相手とここまでスムーズに話が進んだのは珍しい。
「企画が通ったら、ぜひ現場も見ていただきたいです。倉庫や店舗など、実際に見ていただいたほうが、よりよい提案ができると思いますので」
「ぜひ。こちらもそうしたいと思っていました」
相沢が立ち上がり、手を差し出した。握手を交わした。温かくて、力の入れ方がちょうどいい手だった。
「よかったら連絡先、交換しませんか。メールだけだと堅いので、なにかあったときにすぐ相談できるように」
「ああ、そうですね。もちろん」
スマートフォンを取り出して、連絡先を交換した。帰り際に相沢が「次は打ち合わせの後にでも、軽く食事しましょう」と笑った。
嫌な感じがまったくしない人だった。押しつけがましくなく、かといって事務的でもない。仕事の相手として、理想的な距離感だと思った。
◆
オフィスに戻ると、理人がコーヒーを持ってきた。
「おかえりなさい」
「おう。ただいま」
コーヒーを受け取ってひとくち飲む。温度がちょうどいい。理人は、直が戻る時間から逆算してコーヒーを淹れてくれている。スケジュールを共有しているから、フィールクラフト訪問の時間も把握しているのだ。
「どうでした?」
「よかったよ。企画も通りそうだし、向こうの担当者がすごく話しやすい人でさ」
「そうですか」
「相沢さんっていうんだけど、歳も近くて。現場の視察にも一緒に来てほしいって言ってくれた」
理人の手が一瞬止まった。コーヒーカップを持ったまま、指先の力が変わったのがわかった。
「そうですか」
「あとさ、企画が決まったら、食事でもどうかって誘われた。接待ってほどじゃないけど、関係深めるのにいいだろ」
「……ええ」
理人の返事は短かった。いつもなら「いいじゃないですか」とか「段取り確認しましょうか」とか、なにかしらフォローが入るのに。今日は一言ずつだ。しかも、直の目を見ていない。
「神谷? どうした。なんか元気ないぞ」
「そんなことないです」
理人はそれだけ言って、斜め後ろの自席に戻っていった。背中が、なんとなく硬い。振り返ると、もうモニターに向かっている。キーボードを打つ音だけが聞こえた。
なにか変なこと言ったか。思い当たらない。
直は首をかしげて、報告書の作成に取りかかった。
そのとき、直のスマートフォンが震えた。相沢からだった。
『今日はありがとうございました。夏目さんの説明、社内でも好評でした。企画、通ると思います!』
直は口元が緩んだ。返事を打ちかけて、ふと手を止めた。理人が斜め後ろの席にいる。別に見られて困るようなメッセージではないのに、なんとなく今打つのが気まずかった。
スマートフォンをポケットにしまった。後で返せばいい。なぜそうしたのか、自分でもわからなかった。
◆
その日の帰り、会社の最寄り駅へ向かう道すがら、理人の口数がいつもより少なかった。
五月も後半に入って、日が長くなった。夕方の空がまだ明るくて、住宅街の影が長く伸びている。
「なあ、神谷。ほんとに大丈夫か? なんか今日、ずっと静かだろ」
「いつも通りです」
「いつも通りじゃないだろ。俺にはわかるぞ」
理人がちらりとこちらを見た。ほんの一瞬、目が合った。なにか言いかけて、やめたように見えた。
「……そうですか」
それだけだった。
黙ったまま並んで歩いた。いつもなら理人から明日の予定の確認や、夕飯の話題が出るのに、今日はなにもない。沈黙が続くのは珍しくない。だが、今日はいつもと違って重い。
直はなんとなく居心地が悪くて、話題を探した。
「今日の商談さ、相沢さんがすごく褒めてくれてさ。説明がわかりやすいって」
「……そうですか」
また同じ返事だった。
直は横目で理人を見た。前を向いて歩いている。表情は変わらない。でも、歩幅がいつもより少し広い気がした。速く歩いて、早く帰りたいのだろうか。
「……悪い。なんか気に障ること言ったか」
「言ってません」
「じゃあなんでそんな不機嫌なんだよ」
「不機嫌じゃないです」
「なってるだろ!」
「なってません」
理人が足を止めた。直も止まった。
理人がこちらを見た。まっすぐに。
その目に、見慣れない色があった。怒りではない。悲しみでもない。名前のつけられないなにか。直を見ているのに、直の奥にあるなにかを見ているような目だった。
直は言葉を失った。
数秒間、ふたりの間で視線が止まった。
理人が先に目を逸らした。そして、ほんのわずかに口角を上げた。笑い、とは言えないくらい小さな動きだった。
「なんでもないです。先輩が楽しそうでよかったです」
「……お前さ、それ、ぜんぜんよかったって顔してないぞ」
「気のせいです。行きましょう」
理人が歩き出した。直はその背中を追いかけた。半歩遅れて、隣に並ぶ。
なにかがおかしい。相沢の話をしてから、ずっとこうだ。仕事の話をしているだけなのに、理人の空気が固くなる。
けれど、聞いても「なんでもない」としか言わない。理人はいつもそうだ。自分の感情を言葉にしない。
◆
翌日、朝の八時。理人が直のアパートの前に立っていた。
「おはようございます」
「おっ、おま……。なんでいるんだ」
「今日から朝、迎えに来ます」
「は? なんで急に」
「先輩は気を抜くと寝坊します。出社時間を安定させるためです」
「いや、最近は寝坊してないだろ」
「予防です。習慣が崩れてからでは遅いので」
理人の口調は淡々としていた。否定する隙がない。いつものことだが、理人は「やります」と決めたら、それを決定事項として話してしまう。
「お前、ここまでくるのに三十分以上かかるだろ。毎朝ってわけにはいかねえだろ」
「朝は早いので問題ありません」
「……マジかよ」
直は諦めて、理人と並んで駅へ向かった。
朝の住宅街は静かだった。通勤の人がちらほら歩いている。初夏の朝の空気は澄んでいて、ビルの谷間とは違う匂いがした。その中をふたりで並んで歩くのは、なんだか不思議な気分だった。
「なあ、昨日の帰り、お前元気なかっただろ」
「そうでしたか」
「そうだったよ。フィールクラフトの話してから、ずっと」
「……そうですか」
それ以上は言わなかった。理人は前を向いて歩いている。横顔からはなにも読み取れない。
まあ、いいか。理人にだって調子の悪い日はあるだろう。
電車に乗って、オフィスに向かった。朝のラッシュの電車は混んでいたが、ふたり並んで吊革につかまれる程度の余裕はあった。電車の中で、ふと思い出した。
「あ、そうだ。昨日言いそびれたんだけどさ」
「なんですか」
「相沢さんに、うちの会社の強みの話してたら、学祭の話になってさ」
「学祭?」
理人の声が、わずかに変わった。気のせいかもしれない。
「ああ。なんか、相沢さんも大学のとき学祭で模擬店やってたらしくて。俺も学祭で焼きそば焼いてたんだよーって話したら盛り上がった」
理人の手が、一瞬だけ止まった。
吊革を握っていた手が、ほんのわずかに力を込めたように見えた。
「そうなんですか。先輩、焼きそば好きですもんね」
「まあな。大学のサークルで毎年やってたんだ。うちの焼きそば最高だからって客に勧めまくってた」
「……うちの焼きそば、最高」
理人が小さく繰り返した。
「ん? なんか言った?」
「いえ。楽しそうですね、学祭」
「おう。あのころは楽しかったな」
理人は窓の外を見ていた。その横顔がほんの一瞬だけ、いつもと違う色を帯びた気がした。懐かしいような、苦しいような。けれど直が見たときには、もういつもの無表情に戻っていた。
◆
理人が朝迎えにくるようになって一週間が経った。
毎朝八時にインターホンが鳴る。「おはようございます」の一言から始まる日課。最初は戸惑ったが、三日で慣れた。理人がくる前に身支度を整えるようになったし、朝食も食べるようになった。待たせるのが申し訳ないからだ。
結果的に、生活がさらに規則正しくなった。理人の狙い通りだ。
弁当作り、水曜と週末の夕飯作り、そして毎朝の迎え。直の一日のうち、理人が関わっていない時間はほとんどなかった。寝ている時間と、仕事をしている時間くらいだ。それすらも、共有スケジュールで理人に管理されている。
その日の朝は、目が覚めたときからなんとなくだるかった。昨日の接待で遅くなったせいだ。相沢との打ち合わせの後に軽く食事をし、話が弾んで、気づけば二十二時を過ぎていた。相沢は話していて楽な相手だった。仕事の話から趣味の話に自然に移れるタイプの人で、こういう取引先は大事にしたいと思った。
インターホンが鳴って、玄関を開けた。
「おはようございます」
理人はいつも通り、隙のない格好で立っていた。直の顔を見て、一瞬だけ目を細めた。
「先輩、今日、顔色が悪いですね。昨日は何時に寝ましたか?」
「……一時すぎ、かな」
「接待でしたよね」
「ああ。相沢さんと飯食ってたら長くなって」
理人の表情が、ほんのわずかに動いた。唇がきゅっと引き結ばれたのが見えた。けれどすぐに元に戻って、鞄からなにかを取り出した。
「これ、飲んでください」
パックに入った野菜と果物のジュースだった。黒酢が入ってるらしい。
「お、サンキュ。気が利くな」
「朝食は食べましたか」
「トースト一枚」
「足りないですね。コンビニ寄りましょう。サラダぐらい追加してください」
「へいへい」
並んで駅に向かう。理人の歩調はいつも通りだった。けれど今日は口数が少ない。相沢の名前を出してから、また静かになった。
「なあ、神谷」
「はい」
「お前さ、最近なんか……」
聞こうとして、やめた。
なんか変じゃないか、と聞きたかった。相沢の話をするたびに、理人の空気が硬くなる。口数が減る。それが嫉妬なのか、心配なのか、別のなにかなのか、直にはわからなかった。
「なんか、なんですか」
「……いや、なんでもない」
理人はこちらを見なかった。前を向いたまま歩いている。
そのとき、直はふと気づいた。理人の目の下に、うっすらとくまがあった。
「お前こそ、ちゃんと寝てんのか?」
「……寝てます」
「嘘つけ。くまできてるじゃねえか」
「大丈夫です」
理人の声がわずかに揺れた。気のせいかもしれない。けれど直は、理人がいつもより疲れて見えることが気になった。
毎朝三十分以上かけて迎えに来ている。弁当を作り、水曜と週末には夕飯を作りにくる。自分の仕事もある。それをこなした上で、この生活。
理人は自分のことを後回しにしていないか。
「無理すんなよ。朝の迎え、やめてもいいんだぞ」
「やめません」
即答だった。
「先輩が心配しなくていいです。俺は大丈夫ですから」
理人がようやくこちらを見た。目が合った。
そこにあったのは、いつもの無表情ではなかった。名前のつけられないなにかが混じった目だった。真剣で、けれどどこか切なくて。
直は言葉を失った。
数秒間、ふたりの間で視線が止まった。
理人が先に目を逸らした。「行きましょう」と言って、歩き出した。
直はその背中を追いかけた。半歩遅れて、隣に並ぶ。
――あいつ、最近なんか変じゃないか。
聞こうとして、やめた。聞いたら、きっと「なんでもありません」と返される。それがわかっているのに、気になって仕方なかった。
理人の横顔を盗み見た。いつも通りの無表情。いつも通りの姿勢。けれどその奥に、さっき見えたなにかがまだ残っているように思えた。
それがなんなのか、直にはまだわからなかった。
まるで太陽のような人だと思った。◆ 俺には友達が少ない。 小学校のころからずっとそうだった。人見知りが強く、自分から話しかけることができない。話しかけてもらっても、なにを話せばいいのかわからず、黙ってしまう。表情が乏しいとよく言われた。怒っているわけでも、機嫌が悪いわけでもない。ただ、顔の筋肉がうまく動かないだけだ。 中学、高校と進んでも変わらなかった。クラスに馴染めず、休み時間はひとりで本を読んでいた。話しかけてくれる人がいなかったわけではない。けれど、会話が続かない。相手が気まずそうな顔をするのを見て、申し訳なくなって、自分から距離を置いてしまう。その繰り返しだった。 大学に入っても同じだった。講義のある日は大学に行き、終わればすぐに帰る。サークルにも入らなかった。入りたい気持ちはあった。けれど、あの輪の中に飛び込む勇気がなかった。 そんな俺にも、数えるほどだが友達はいた。同じ学科の佐々木という男が、入学初日に隣の席に座って「よろしくな」と話しかけてきた。俺が黙っていても気にしない男だった。沈黙を苦にしないタイプで、それが俺には楽だった。 大学一年の秋。その佐々木に「学園祭に一緒に行かないか?」と誘われた。「学園祭?」「明正大学の。彼女がそこに通ってるんだ。学園祭に来てほしいって言われてさ」「……俺が行っても邪魔じゃないか」「邪魔なわけねえだろ。ひとりで行くのもさびしいし」 断る理由もなかった。他の大学に行く機会なんてめったにない。それに、佐々木に誘われて断るのは申し訳ない。数少ない友達のひとりだ。 十月の土曜日。明正大学の学園祭に行った。 キャンパスは人で溢れていた。模擬店が並び、あちこちから音楽や笑い声が聞こえてくる。色とりどりの看板や幟がはためいている。楽しそうだった。けれど、俺にはその楽しさに入っていけない感覚があった。いつもそうだ。人が楽しんでいる場所にいると、自分だけがガラス一枚向こう側にいるような気持ちになる。見えているのに、そこに触れられない。 佐々木とふたりで回った。焼きそばを買って、たこ焼きを買って、ステージでバンドの演奏を聴いた。佐々木は楽しそうだった。俺は佐々木の横を黙ってついて歩いていた。 しばらくすると、佐々木の彼女がやってきた。「りっちゃーん!」と手を振りながら駆けてくる。佐々木の顔がぱっと明るくな
朝起きると、隣に理人が眠っていた。 ――よかった……。夢じゃなかった。 隣ですうすうと寝息を立てている理人を見て、ほっとした。昨日のことが、夢のように感じられたからだ。あんなに大切に抱かれるなんて、思ってもみなかった。思い出しただけでも、カッと頬に熱がこもる。 狭いシングルベッドに大人の男がふたり。けれどちっとも狭く感じないのは、理人が直をやさしく抱き寄せて眠っているからだ。 鼻先がくっつきそうな距離で理人の顔をじっと見つめる。 長いまつ毛が朝日を浴びて、頬に影を落としていた。起きているときはキリッとした印象だが、眠っているときはふんわりとやわらかい印象だ。「もう、俺から離れるな」 直は小さくつぶやいて、理人の額にキスを落とした。「はい。もうどこにもいきません」 急に理人が目を開けて、心臓が跳ねた。「お、お前っ! 起きてたのかよ……」「直が俺のこと見てくれてたんで、寝たふりしてました」「ば、ばかっ! 恥ずかしいだろ」「なんでですか? 俺はうれしいです」 理人が直を包んでいる腕に力を入れて、ぎゅっと抱きしめた。「もう離れないし、離してあげません」「そんなの……俺だって同じだよ」 上目遣いで理人を見ると、目が合った。まだ信じられない。後輩だった男と、こんな関係になっているなんて。恥ずかしさが抜けきらなくて、まるで初めて恋をしているようだった。 いや、実際に初めての恋なのだ。今まで本気で誰かを好きになったことがなくて、理人が初めて本気で好きになった相手なのだから。 お互いに見つめ合うと、自然と唇が重なった。お互いの想いを確かめるキスだった。 理人がベッドから身体を起こした。「じゃあ、朝ごはん作りますね」「おう。じゃあ俺も手伝う」「直は座って――」 直は理人の口を指先で塞いだ。「おい、昨日俺
理人が出ていって、どれくらい時間が経っただろう。 散らかった部屋の中で、直はひとり座っていた。理人がさっき脇に寄せてくれたテーブルの上を見つめている。コーヒーの匂いが残っている。理人の匂いが残っている。 好きだって言われた。「好きです。先輩のことが。ずっと。これからも」。あの声は本物だった。震えていて、かすれていて、七年分の重さがこもっていた。 なのに去っていった。 直には理人の行動が理解できなかった。好きなのに離れる。覚悟があるのに泣きそうな顔をしている。近づかないと言いながら、わざわざ大阪から東京まで来ている。全部、矛盾している。 けれど。 去り際の理人の顔を思い出した。あの表情。目が潤んで、唇が震えて、背中が丸くなって。あれは、離れたい人間の顔じゃなかった。離れたくないのに、離れなければいけないと思い込んでいる顔だった。 理人はこわいのだ。 管理という枠組みを外したら、自分がどうすればいいのかわからない。直のそばにいる方法が、管理以外にわからない。管理を手放したら、自分はただの執着していた後輩に戻ってしまう。そう思い込んでいる。 ――馬鹿だな、あいつ。 じゃあ、自分はどうだ。 直は管理される側はもう嫌だと言った。対等に立ちたいと言った。それは、理人から世話を焼かれるのが嫌なのではない。自分も理人になにかをしてやりたいと思ったからだ。 今までは彼女に世話を焼かれるばかりだった。自分から誰かに尽くしたいと思ったことなんてなかった。理人が初めてだ。理人のために弁当を作りたいと思った。理人の部屋を掃除したいと思った。理人が疲れて帰ってきたとき、あたたかいものを用意して待っていたいと思った。 世話を焼きたい。その気持ちの正体が、今ならわかる。 愛おしいから、大切だから、大事にしたいから——世話を焼きたいのだ。 だから理人は直のために毎日弁当を作ってくれたのだ。直の好きな味付けの、直の好きな献立で。直がくつろげるように家を掃除してくれた。体の疲れが取れるように、バランスの取れた食事を作り置きしてくれた。全
大阪で自分の気持ちを全部伝えた。 好きだと言った。対等に立ちたいと言った。管理じゃなくて、と。直にできることは全部やった。あとは、理人の答えを待つだけだ。そう思っていた。 けれど理人からは「考えさせてください」と言われた。返事は保留になった。拒絶ではないが、受け入れてもらったわけでもない。よろよろと公園の暗がりに消えていった理人の背中が、まだ目に焼きついている。 東京に戻ると、水城や梨沙が心配そうにこちらを見ていた。けれど、なにも聞いてこなかった。直の表情を見て、察したのだろう。聞かないでいてくれるやさしさが、逆にこたえた。 待つと決めたのは自分だ。七年待たせた。今度は自分が待つ番だ。 けれど、待つのはこんなにもつらいものなのだろうか。朝起きて、スマートフォンを見る。通知はない。仕事に行く。昼休み、スマートフォンを見る。通知はない。帰宅して、また見る。ない。その繰り返しが、毎日続いた。 直が大阪を訪れてから二週間が経った。理人からの連絡は一通のメッセージも、一本の電話もなかった。 もう、このまま終わるのだろうか。 不安が押し寄せてきた。仕事をしていても集中できない。もう無理なのかもしれない。直の告白が、逆に理人を追い詰めてしまったのではないか。「管理はいらない。対等にいたい」。あの言葉が、理人にとっては拒絶に聞こえたのかもしれない。直は前に進むつもりで言った。けれど理人にとっては、居場所を奪われたように感じたのかもしれない。 だとしたら、直はまた間違えたのだろうか。距離を置こうと言ったときと同じように。良かれと思ってしたことが、裏目に出る。直はいつもそうだ。 たった二週間なのに、もう何年も待っているような感覚だった。 理人は七年も待っていた。その間、ずっとひとりで。直のことを想いながら、声をかけられない距離で。好きだと言えない場所で。そう考えると、気が遠くなった。直は二週間で音を上げかけている。理人は七年間、一度も弱音を吐かなかった。その忍耐力と、その孤独に、今さらながら胸が痛んだ。 考えても答えは出なかった。理人の気持ちは理人にしかわからない。直にでき
直は何度、自分に「逃げるな」と言い聞かせただろうか。 距離を置こうと自分から言い出したのに、理人に冷たくされるとつらくて泣いた。水城に背中を押され、梨沙に問いかけられ、相沢に励まされて、ようやくここまで来た。そして理人の七年分の告白を聞いた今、今度は自分が伝える番だ。 自分のことなのに、他人に背中を押されないと前に進めない。情けないし、みっともない。二十七にもなって、なおさら情けない。 けれど、直は会社を半日休んで新幹線に乗り、大阪までやってきたのだ。今まで来たことのない街に、理人に会うためだけに。それだけは、自分の意志だ。水城に言われたからでも、梨沙に促されたからでもない。理人に会いたかった。自分の言葉で伝えたかった。ここまでの道のりを、自分の足で歩いてきた。 ここには水城も相沢も梨沙もいない。背中を押してくれる人は誰もいない。この公園のベンチには、直と理人のふたりだけだ。 自分の足で前に進まなければいけない。自分の言葉で伝えなければいけない。 理人も七年間の想いを伝えてくれた。学園祭のこと。冬の夜のこと。SNSのこと。入社の理由。全部、さらけだしてくれた。あの理人が。感情を表に出さない理人が。「管理です」の一言で全部を隠してきた理人が。直の前で、七年分の蓋を開けてくれた。 本当は言うつもりなどなかったかもしれない。「答えはいりません。知ってほしかっただけです」と言って立ち去ろうとした。直が引き止めたのだ。 だから今度は自分の番だ。理人がさらけだしてくれた分、直もさらけだす。 直は大きく深呼吸をした。夜の公園の空気を吸い込んだ。夏のなごりの熱を含んだ風が頬を撫でた。握った拳の中にじっとりと汗が滲んでいた。街灯の明かりが理人の横顔を照らしている。 直は理人を見た。隣に座っている理人と目が合った。理人の目はまだ揺れている。七年分の告白をした後の、丸裸になった目。直がなにを言うのか、待っている目。こわいような、期待しているような。けれど期待していることを自分に許していないような、複雑な目だった。 なんのために大阪まで来たんだ。しっかりしろ。 自分を叱咤して口を開いた。
理人はしばらく視線をさまよわせていた。直の目を見ては逸らし、また見た。なにか迷っているのか、覚悟を決めかねているのか。 直は理人の肩を掴んだまま、手に力を込めた。 こわい。理人の口からなにが出てくるのかが、こわい。七年間隠していたことを聞くのが、こわい。七年間隠していたことを聞く。それは、理人と直の関係の土台をひっくり返すかもしれない。管理だと思っていたものが、まったく別のものだったと知ることになるかもしれない。 けれど、聞かなければならない。「理人」 直は再び名前を呼んだ。緊張で声がかすれた。 公園を風が吹き抜けた。木々が揺れて、葉擦れの音がした。夕暮れの光が弱まりはじめている。 理人は、心を決めたように直を見た。まっすぐに。あの目だ。合鍵を返そうとしたときの目。路地裏でキスをしたときの目。エレベーターの中で見た目。何度も見た、感情を閉じ込めきれない目。けれど今は、閉じ込めようとしていなかった。蓋を開けようとしている目だった。「……話します」「うん」 直は理人の肩から手を離した。理人が話しやすいように。 理人は膝の上で手を強く組んだ。関節が白くなっていた。しばらく黙って、それから口を開いた。「俺が初めて先輩に会ったのは……そのパンフレットの、学園祭のときでした」 静かな声だった。けれど、かすかに震えていた。「俺は……人付き合いが得意じゃなくて。大学に入っても友達は少なかったです。その年の秋に、数少ない友達に誘われて、明正大学の学園祭に行きました。友達の彼女がそこに通っていたので」「……うん」「しばらく一緒に回ってたんですけど、途中で友達が彼女と合流して。俺はひとりになりました」 理人がそこで言葉を切った。息を吐いた。当時の孤独を思い出しているような間だった。「帰ろうと思いました。けど、笑い声の絶えない模擬店が近くにあって。気になって、近づいたんです」
金曜日の朝、久しぶりに直の家のインターホンが鳴った。 直はいそいそと玄関に向かった。「おはよう」「おはようございます」 玄関前に理人が立っていた。白いシャツにネイビーのパンツという、いつもの格好だ。肩に雨粒が少しついている。直は口元が緩みそうになるのを堪えた。「今日も雨だな」「一日降り続くようです。折り畳みじゃないほうがいいですよ」「おう」 直がしゃがんで靴を履いていると、頭上から理人の声が降ってきた。「……ひどいで
理人が距離を置いてから、数日が経っていた。 弁当はない。朝の迎えもない。帰りも別々だ。会社でも、必要最低限の会話しかしない。 これが、管理が始まる前の生活だったのだ。ほんの二か月前まではこれが普通だったのに、今は毎日がやけに長く感じた。 その日の夕方、直はひとりで会社の最寄り駅へ向かって歩いていた。六月の空はまだ明るくて、夕日がビルの谷間に沈みかけていた。「あれ、直くん?」 声をかけられて振り返った。見覚えのある顔だった。「……あゆみ?
熱は下がった。けれど身体のだるさは抜けなかった。 とはいえ、二日も仕事を休むわけにはいかない。直は重い身体を動かし、出勤の準備をした。 いつもの時間になっても、インターホンが鳴らない。理人が迎えに来ない朝は久しぶりだった。入れ違いにならないよう、理人にメッセージを送った。『今日、出社するから』 すぐに返信がきた。『すみません。今日は迎えに行けません』 来られないのか。理人は、直が昨日に続いて休むと思っていたのかもしれない。けれど、その一文にはいつもの「気をつけてください」がなかった。
朝起きたら、身体がだるかった。 頭が重い。関節が痛い。喉の奥がひりひりする。この感覚は知っている。「あー……やっちまったな」 電子音が鳴るまでの一分間がやけに長く感じた。 鏡に映った自分の顔はひどかった。目の下が赤く、唇も乾いている。体温計を脇に挟んで待つ。電子音が鳴るまでの一分間が長い。ピピッと鳴って画面を見ると、三十八度二分だった。「……だよな」 原因は心当たりがある。昨日の帰り道だ。 夕方から急に雨が降りだした。六